かあさん ちょいちょい がん患者

食道がんと咽頭がんと肺がんのお母さんと、家族と育児の闘病生活をイラスト日記にしました

息子が号泣したらしい

「迷い」と「決断」

※今回は、締め切りギリギリで仕上げた「りっすん」キャンペーン向けの記事です。

はてなブログでは、「りっすん」と共同で特別お題キャンペーンを実施します。働き方や生き方にまつわる#「迷い」と「決断」をテーマに、記事を投稿してください】

 

                                 

 

私に癌が見つかったのは、48歳の夏頃だった。喘息の薬を追加するつもりで訪れた町医者で、偶然受けたCT検査により発見された。

 

原発巣が下咽頭と食道に重複する多発性癌で、肺の右下葉にも癌があった。

県外の有名な大学病院を紹介され、検査結果と治療方針が決まるまで、モノの2週間と掛からぬスピード対応だった。

 

その時は、医者と私の二人キリ。

入院病棟の端にある個室に呼ばれ、担当医から検査結果と治療方針の報告を受けた。

 

「臓器複数カ所、進行癌で急を要する」

「下咽頭と食道は全摘出」「肺は右下葉を摘出」

抗がん剤2クール、必要なら追加で放射線治療、リンパ郭清、腸ろう形成・・・

 

頭が真っ白になるとは、日本独特の表現らしい。

 

摘出した喉(下咽頭)の部分には小腸を移植し、胃で管を形成して移植小腸と繋ぐ。これで食道を補う事は出来るが、嚥下機能が失われるので、呼吸(気道)と食物の通り道を分けなくてはならない。

 

医者は静かに言う。

「喉に永久気管孔を作り、声帯を摘出する必要があります」

「一生 声が出せない障害が残ります」

 

「他の方法はありませんか?」

誰もが聞くような質問をしてみるが、医者は「命か?声か?」を天秤に掛ける様な言葉は言わなかった。ただ「手術をしなければ1年」と言った。

 

迷うはずがない。

私はまだ48歳。死ぬには、ど~考えても早すぎる。

子供が二人、可哀そうじゃん!

 

 「先生、喉で肺でも、何でも切っちゃってください。それで助かるんですよね!」

その場で手術を受け入れた私に、医者が苦笑いで言った言葉は「これほど潔い患者も珍しい」だった。

 

2日後、再び医者から呼び出され、夫と3人で治療方針が確認された。

内容は同じだったが、医者の話を聞くうちに、夫がみるみる青ざめて震え出した。椅子から転げ落ちる様に身体を揺らし、涙を流して泣き出した。

 

そして医者の手を取り

「先生!助けてやって下さい」と懇願したのだ。

 

私はこの夫の対応に、心から驚いてしまった。

《そこまで衝撃を受ける?痛いのも苦しいのも私なんだから、あなたは優しく見守ってくれるだけでイイんだよ!声を失うけど、私は助かるんだって!》

 

しかし夫の動揺は相当だったらしく、記憶が曖昧との理由から、後日もう一度、叔父と私の実兄、義兄(夫の兄)を引き連れた大家族審判のごとく、医者の説明会が設けられた。

 

                                 

 

私の癌発見当時、娘は9歳。

息子は17歳、高校3年の受験生だった。

 

息子は中学生頃から反抗期で、酷い時には1カ月も私を無視する様な状態だった。

高校生になり幾分落ち着いてきたが、それでも大学受験を控えて、穏やかとは言えない心情だったに違いない。

 

母に癌が見つかったと息子に告げた時、息子は泣いた。号泣したと言って良い。

 

しかし正確に言うと、私の前では泣かなかった。

学校のホームルームで、息子は突然、声をあげて泣いたらしい。母が癌だと抑えきれなかった涙で、クラス中が仰天した。担任の先生がその日のうちに、夫に連絡をくれて発覚した。

 

私はその話を、治療方針が固まった入院中に聞いた。

そして突然、考えもしなかった「迷い」が生じたのだ。

 

いったい、いつ、誰が、どの様に、『実は母の癌は重症で、手術を受けたら声を失う』と、子供達に話せば良いのだろう?

 

                                 

 

手術や抗がん剤に、副作用や危険はセットである。

麻酔の拒絶反応が数%、意識が回復しない場合も数%、移植した腸の血流不良や永久気管孔の狭窄が起きると再手術、細菌感染に患部癒着にケロイド・・・

 

その内容たるや、無事に生きて帰れるとは思えなくなる程の「デメリット」が羅列される。しかしその危険を受け入れないと、手術や抗がん剤も出来ない。

 

「承諾書」に「説明を受けました」とサインを入れる。

 まるで私が手術で死んでも、抗がん剤で死んでも、病院や医者には責任がありませんと責任放棄を認める様に、患者が任意でサインした様なものだ。

 

手術の予定が近づくにつれ、日増しにそのデメリットが私に覆いかかった。潔い患者のはずの私が、いつしか涙を流すまでに不安と恐怖に苛まれる。

そしてこの時期、私が病状について言葉を発すると、前向きとは言えない感情が溢れ出していた。憂慮に縛られたその言葉は、話す本人より聞く側に重く圧し掛かってくる。

 

病室で、娘が私に聞いた。

「どうしていつまでも入院しとるん?」

「重症じゃけぇに決まっとるが!」

 

明るく答えたハズが、その時の「娘の絶句」

そして「夫の涙」と「息子の号泣」が私を導いた。

 

                                 

  

私は一切を、子供達には伝えない決断をした。

私が死ぬ前から、死ぬ恐怖に震えるより、死んだら嘆けばよい。

声は失ってから、懐かしめばよい。

 

私が手術後のICUから一般病棟に戻るまで、そして笑顔で退院の話が出来るまで、子供達の前で私の病状や声についての話題はしないと、夫と約束をした。

 

手術の前日、見舞いに来てくれた息子の笑顔が、忘れられない。

 

                                 

 

手術から5年が過ぎた。

無事に寛解を迎えたわけだ。

その間、私が失ったモノは、何もなかった。

確かに声を失ったけれたど、そんな事は大したコトじゃなかった。

 

乗り越える力を、家族からもらった。

そして家族が笑顔で、未来を語る日々が続いている。

 

子供達が私の症状や声について夫から聞かされた時、その反応は様々だったらしい。

幼い娘には理解し難いだろうと思っていたが、ビデオに残る私の声を聞いて、涙が止まらなくなったという。

息子は夜中に出て行ったキリ、行方不明になったらしい。

 

二人の気持ちは、如何ばかりか。

 

それでもその時に、私はもう既に手術を終えて、一般病棟で笑っていた。

子供達の気持ちが、不安から安心に変わるまで、時間は掛からなかったと思う。

 

 

 

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