娘の静かな怒りと大泣きに、私の「存在」が大切なのだと猛省した話です
地震のニュースが今朝も流れました。
我が家はピクリとも動きませんが、あの警報を聞くと「急いで逃げてください」と祈るような気持ちで、居ても立ってもいられなくなります。
健康な身体であればあるほど、失われる命の苦しさは比でないと上野正彦さんの本で読んだことがあります。そんな不条理があってはいけません。
どうか命を第一に、お気をつけください。
娘が大激怒で大泣きした話
一昨日の話です。
義姉に誘ってもらって歩いて1分の叔父の家にお邪魔しました。
84歳になる叔母が施設に入所し、もう着る機会がないだろうスーツや冬服を譲って下さると言います。
ついつい時間を忘れて義姉とシンデレラをしておりましたら
娘が叔父家にやって来て仁王立ち!
硬く握られた拳に、着の身着のまま裸足です。
「心配したが!!!」
怒りの涙は、静かにボロボロと頬を流れました。
実はこの数年で、私が熱や腹痛で苦しんでいた時に、運良くか運悪くか、帰宅した娘に助けてもらった事があります。
それが娘にとって心の重荷になっていたのでしょう.。
学校から帰宅したのに家は静かです。車は車庫に置いたままです。
(車がある=家に居る=田舎の構図)
また倒れていないか?
トイレで苦しんでいないか?
心配で心配で、大声で家中を探し回ったそうです。
娘にとって、私が「留守だった」のが問題でない
「叔父さん家にいるよ」ってメモを残せばよかったねぇ。。。と普通に考えればそうですけれど、娘にとって問題だったのは、「私が出掛けている」事ではないのです。
車は車庫にあったけど、お家の鍵はいつもの内緒の場所に置いてあります。
歩いておばぁば家に行く事もあるでしょう。
小6にでもなれば、一人でお留守番も出来ます。
自分で鍵を開ける放課後なんて、何度も経験済みです。
それなのにあの怒りと大泣きの意味は?
娘にとって必要なのは「私が元気で存在している」という証明です。
救急車で運ばれたり、どこかで苦しんいでいなくて、急病で病院に連れて行かれたのではない、私が元気で生きている事実が重要だったのです。
理不尽に失われる命を思う
テレビのニュースでは、理不尽に失われた命の話題が流れています。
今日も「車に戻ったら子供が死んでいた。中略 そのまま車に積んでいた」という親の言葉に、もはや荷物扱いなのかと、人間の言葉に思えません。
人間は産まれて生きる意味が必ずあるはずなのに・・・と時々自問自答です。
この小さな命は何だったのだろう?
なぜ命を大切に思う心が育まれず、鬼畜の親になったのだろう。
私は重病人でも障がい者でも、生きる意味があります。
おっと~が、娘と息子が
我を忘れるほど心配するから!
私がいなくちゃ生きていけないのですよ。これホント!
娘の涙に猛省し、私の存在の大切さを再確認しなくてはいけません。
娘よ許してください!
これからは必ずメモと、おやつを残して出掛けます(笑)
もしこのブログを鬼畜になった親が読んだとしても、娘の心配の涙も、私の生きる意味も、家族の存在も、意に反する事なのだろうか?理解が出来ないのだろうか?