「死ね」としか表現できない子供達には、現実的な共感が足りないと思う。
日曜日なので、週間ニュースが放送されるのを見ていたら、必ずと言っていいほど「いじめ」に関する話題になります。
先週も青森県石黒市での問題が指摘されていました。
今や殆どのいじめに共通する、SNSなどで交換される誹謗中傷メールを見ると、必ずと言ってよいほど表現される「死ね」との言葉。
「私は彼女の***という態度にものすごく腹が立っている」
➡彼女が死ねばいいのに
(そのまま怒っていると表現できないの?)
「私の元彼と彼女が仲いいみたい」
➡彼女が死ねばいいのに
(それは立派な失恋じゃない?)
「あなたが彼女に怒っているから」
➡彼女が死ねばいいのにねぇ
(同調していいの?)
呆れるほど安直!!!
「死」に向かい合った経験がないから。。。
そんな言葉を使う子供は、大体「親の教育が悪い」「学校が、先生が、教育委員会が悪い」と必ず非難されるます。しかし一概に、悪いのはそれだけでしょうか?!
当たり前の事ですが死んだ方から、死んだ経験をお話していただくことは出来ません。だから殆どの人は「死ぬような経験をした」体験談を聞いて、死に向かい合うのでしょう。(お医者様もしかりです)
しかし核家族化などで介護の現実も薄れ、親の世代でも「死」に向かい合った経験がない方が殆どではないでしょうか?
漠然と恐怖や喪失のイメージでしょう。
あっけらかんと、疲れの表現として、ショックの言葉として、ひどい場合は抹消するという言葉の同義語の様な扱いを受けています。
死ぬ事は口に出すほど簡単ではありません。
私の経験ですが、
50歳近いおばさんが、トイレで恥も外聞もなくなり、涙と冷や汗でもだえ苦しむ
術後に医療用麻薬の調節がうまくいかず、全身を4カ所以上も切ったそのすざまじい痛みに、もだえる力さえなくなる
それでも人はなかなか「死ぬ気」にはなりません。
本人も周囲の方々も、生へと繋がるように手を尽くします。
苦しみもだえる私の前で「そんなに苦しいんなら、死ねば?」という人がいるでしょうか?
しかしいじめをする子供は、もだえ苦しむ人に追い打ちをかける様に「死ね」を繰り返し投げつけます。
集団心理も働くと思いますが、「死ぬ」ことに向かい合った経験もなければ、相手の苦しみに共感することも出来ないのです。
命の教育も大切です。生きる喜びや共存の大切さを訴える教育も大切です。
しかし戦争やテロ、自然災害や事故の被害を受けた方々など、物凄くリアルで泥臭くて、綺麗ごとではない「死ぬとはどういうことなのか」「心身共にどれほどの苦痛や痛みを伴うのか」「それでも生きる、生きたい」人間の本質を、もっと家庭教育や学校で、実際に見せるべきだと思います。
映画やゲームや絵本と違う、現実です。
それでも原爆資料館など、本当の悲惨な姿が排除される昨今、トラウマになるとか、いたずらに恐怖をあおるとか。。。難しいのでしょうか?
長くなりました。
イラストは思春期になりつつある娘と、受け止め役の私、無関心のふりをしながら最後の出番待ちのおっと~です。
こうやって我が家では、娘の現実に向き合っています(笑)